いま、私たちが立っている土地は、原始時代からはじまり、古代、中世、近世、近代と、時代ごとに生き抜いてきた人たちが踏み固めてできたもの。そしてその土地の上に建っている建築物は、そこで生きてきた人の暮らしを記憶しているもの。
「熊本の建築からはじまる、熊本の歴史語り」は、熊本市内に保存、管理、運営されている記念館を訪ね、そこに縁のある偉人たちがその時代に残した足跡や、建築に刻まれた記憶の一部を不定期連載でご紹介。第二回目となる今回は、近代日本を代表する言論人・徳富蘇峰の旧居である徳富旧邸です。
明治時代の面影残す「大江義塾」跡で 言論人・徳富蘇峰に思いを馳せる
明治から昭和にかけて、ジャーナリストとして活躍した徳富蘇峰。少年・青年時代を過ごした住居跡が徳富記念園として公開されています。
訪れたのは、梅雨まっただ中の6月下旬。連日雨続きでしたが、幸いにもこの日は曇り空で観賞日和のお天気でした。
産業道路の大江4丁目付近交差点から、九学通りに入り50mほど進むと、緑豊かに木々が茂る徳富記念園の庭園が現れます。この庭園を進んだ先に明治時代の面影を残す旧邸と、蘇峰ゆかりの愛用品を展示する資料館が位置しています。
徳富旧邸は2016(平成28)年の熊本地震で被災し、建物のほぼ全区画が破損などの被害を受けました。その後解体と復旧工事を終えて、2022(令和4)年12月に再び開館。ところどころ新しい木材が使われているものの、趣ある日本家屋の様相はそのまま残しています。
蘇峰は『国民之友』『国民新聞』を発刊し、平民主義(後年国権主義へと変わります)を唱えたジャーナリスト・評論家としてよく知られていますが、私塾「大江義塾」を開いた教育者としての側面もありました。旧邸の一角を教室として大江義塾の授業が行われました。
座敷の教室に置かれているのは、塾長を務めた蘇峰が使用していた教卓と、弟で小説家の徳富蘆花をはじめとした塾生が実際に使っていた文机。机に刻まれた傷やヒビ、木材の深い焦げ茶の色味は、140年余の長い年月を思わせノスタルジックな雰囲気を醸し出していました。実際に触れることはできませんが、畳に腰をおろし、私塾が開かれていた当時の様子に思いを馳せるのもいいでしょう。
縁側に座り、風にそよぐ庭園の木々をゆっくりと眺めるのもおすすめです。ちょうど目の前にあるのは、幹周り5mにもなろうかという大きな椎の木。明治初期に蘇峰が植木市で購入したもので、自身の本のなかで「亭々(すくっと立つ様)として天を衝く椎樹」とその偉容をたたえています。
また、蘇峰の師匠で同志社英学校を創設した新島襄から贈られたカタルパの木(種子の2世.3世.4世)も植えられており、5月中旬~下旬には上品な白い花を咲かせ庭園を彩ります。訪問した時期は残念ながらカタルパの花を見ることはできませんでしたが、アジサイやアガパンサスなどの花が(控えめながら)きれいに咲いていました。
庭園観賞を終えたら、旧邸の奥へ。突き当たりの一区画には、明治天皇行在所の一部を移築した部屋が残っています。「行在所(あんざいしょ)」とは、天皇が各地を行幸されるときに、臨時で滞在される場所のこと。1872(明治5)年に明治天皇が熊本を訪れた際、新町の会輔堂(現在の一新幼稚園)が行在所となったそうで、そのとき厠(お手洗い)として作られた部屋が、ここに移築されています。お手洗いといっても、6畳ほどの立派な和室。明治天皇が当時どれだけ手厚くおもてなしを受けたのかが想像できます。こちらは明治天皇の聖跡としても、歴史的な価値のある場所とのことです。
そのほか、旧邸内には、蘇峰が実際に使っていた小引き出し、落書きが残る書棚、蘇峰の思想を表した書などゆかりの品々も。当時の様子・空気感をじっくり味わいながら、観賞のひと時をどうぞ。
徳富蘇峰を通して 熊本の教育の足跡を辿る
蘇峰は1863(文久3)年に、横井小楠の門下生(第一の門弟)としても知られる徳富一敬(かずたか)の長男として水俣で生を受けました。1870(明治3)年に大江に移住し、一敬の勧めで創設間もない熊本洋学校に入学しますが、当時蘇峰はわずか10歳であったため「若すぎる」との理由で、一時退学。3年後に再入学をし、本格的に洋学校の教えを受けることになります。この洋学校で教鞭をとっていたのが、アメリカから訪れたL・Lジェーンズです。ジェーンズは一人で数学、地理、歴史など20科目程の教科を教え、原書を用いた徹底した英語教育を行っていました。
多彩な人材を育てた熊本洋学校ですが、1876(明治9)年、ジェーンズのキリスト教の教えに感化された学生たちによる「奉教結盟(ほうきょうけつめい)」がきっかけとなり、解散。奉教結盟とは、学生たちが西区春日の花岡山で祈祷会を執り行い「キリスト教によって祖国(日本)を救う」という趣旨をまとめた奉教趣旨書に署名誓約をし、団結を図った一連の流れのことをいいます。(禁制ではなかったとはいえ)まだキリスト教への抵抗が根強い当時、この出来事は当局により問題視され、ジェーンズの任期終了とともに洋学校は解散となりました。
解散の後、当時13歳であった蘇峰は海老名弾正(のちに熊本英学校を創設)をはじめとした先輩と行動をともにし、新設したばかりの京都の同志社英学校に転校します。このとき出会ったのが、新島襄です。カタルパのエピソードからも分かるように、蘇峰と新島襄の関係性は篤く、蘇峰は新島のことを「生涯の師」と仰ぎ、新島も蘇峰に自身の遺言を託すほどだったのだとか。
その後、蘇峰は同志社英学校を退学し、上京を経て、幼少期を過ごした熊本・大江の家に戻ってきます。そして、父・一敬と共に大江義塾を創設。このとき蘇峰は19歳を迎えていました。
資料館には、この大江義塾の規則や授業科目などをまとめた貴重な資料が展示されています。大江義塾の英語科目では「ウェルストル綴り書」という教科書を使用していたそうですが、これは熊本洋学校で使われていた教材と同様。そのほか、同志社英学校の授業内容と似通ったものもあり、蘇峰が双方の学校から教育のヒントを得ていたことがはっきりとうかがい知れます。
蘇峰は大江義塾でおよそ3年間教鞭をとりましたが、その際に塾生とともに国内外の思想家の教えを学び、平民主義の考えを深めていきます。その思想をまとめたものが、1886(明治19)年に刊行した『将来之日本』です。こちらも資料館に展示されています。
この本のなかで蘇峰は普通教育の重要性や、「国民一人ひとりが自由に考え、自立して生きていかなければならない」という現在の日本社会に通じる考えを示しました。この思想が、当時、日本の将来を模索していた東京の知識人の間で大評判を呼びました。しばらくして上京した蘇峰は出版社「民友社」を起こし、月刊誌『国民之友』、『国民新聞』を創刊します。
日清戦争を契機に平民主義から国権主義へと考えを変えた蘇峰は、国政に深く関わるようになり、1929(昭和4)年に国民新聞から退きました。その後、全100巻の『近世日本国民史』をまとめるなど、晩年に至るまでは歴史家としても活動を続けたといいます。
1957(昭和32)年に逝去するまで、蘇峰はさまざまな地で活動を行いましたが、その源にはここ大江の旧邸・大江義塾や熊本洋学校での学びがあったといいます。
旧邸の大江義塾跡には、「飲水不忘源」と書かれた蘇峰直筆の書が飾られています。これは中国のことわざである「飲水不忘堀井水(水を飲むときには井戸を堀った人の苦労を忘れるな)」をオマージュしたと考えられており、原典から書き換えられた「源」の文字には、蘇峰のルーツである熊本洋学校での学びや大江義塾での経験が当てはまるのではと推測されています。そうした自身の「源」に対して、「常に感謝を忘れない」という蘇峰の強い思いをうかがい知ることができる気がします。
さらに蘇峰の源流を紐解くと、現代へと続く、黎明期の熊本の教育のかたちが見えてきます。江戸時代末期、思想家の横井小楠が新しい教育のあり方をもとめ実学党を結成し、私塾「小楠堂」や「四時軒」をひらき、実学党の面々をはじめ小楠に学んだ人々の手により熊本洋学校が生まれ、そこで教えを受けた海老名弾正が熊本英学校創設し、一方で蘇峰は大江義塾をつくり平民主義の考えを深めていく……。
蘇峰をきっかけとして、熊本の教育の足跡をめぐる旅に出かけてみるのも興味深い発見がありそうです。
■徳富記念園
住所:熊本市中央区大江4-10-33
問合せ先:096-328-2740(熊本市文化財課)
利用料金:無料
利用時間: 9:30〜16:30
休み:月曜(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
徳富記念園の情報については、こちらからご覧ください。
https://kumamoto-guide.jp/spots/detail/74
(文・写真:菅原 海人)
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